2010年10月07日

白蛇伝補遺



 中国の白蛇伝はほぼ同じストーリーばかりだ、というようなことを書いたが、その後いくつか動きがあった。
 まずは伝統的な白蛇伝だが、香港映画に『新白蛇伝』というのを見つけた。武侠映画「東方不敗」「白髪魔女伝」のヒロインを演じて人気を博したブリジット・リン(林青霞)の主演。だがこれが一向に面白くなかった。発表時期が〃文革〃終結後間もないころだったので、いまさら革命戦士や封建勢力との戦い、などとテーマを定めてもシラケが先に立ち、制作側も半端なラストシーンで終わらせてしまった観がある。
 ところがその少し後、やはり香港から『青蛇転生』という映画が現れ、仰天した。アクション監督で有名なチン・シウトンが特撮の腕を存分に揮い、『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』などで名をはせたジョイ・ウォンと、ジャッキー・チェンとの共演で知られその後「阮玲玉」「HERO」などでも注目されたマギー・チャン(張曼玉)が白蛇青蛇を演じている。男優のほうは忘れた。この映画は敵役の法海禅師を思い切って青年にしてしまったのがミソで、これによって三人の対立の図式は新旧勢力の対立ではなく、理想を異にする青年群像に変わってしまったのだ。法海もまた若さゆえに理想と現実のはざまに苦悩する人物として描かれる。金山寺水没のあと、白蛇は人間になれたものの許宣の子を残して死ぬ。青蛇は人間の世界に見切りをつけて去り、法海は赤子を抱いて途方に暮れる。許宣はどの作品でも優柔不断な男として描かれていて、ここでも情けない死に方をしている。
 さらにさらに、小説でも興味深いものが二篇見つかった。一つは香港の作家劉以鬯の短編「蛇」。白蛇ではなく許宣の視点から三人称で書かれていて、ネタバレになるが、すべては許宣の妄想にすぎなかったのではないかという謎めいたラストで終わる。
 もう一つは、映画『シュウシュウの季節』で大陸では発禁騒ぎを起こした厳歌苓の短編「白蛇」である。四川省の地方劇である「川劇」『青蛇伝』という演目があり、雷宝塔に閉じ込められた白蛇を救出する青蛇を主人公に据えたストーリー。この『青蛇伝』を、〃文革〃の時代を背景に、白蛇伝で名をはせた女優が監禁されているのを、そのファンだった役者志望の少女が救出しカムバックさせるというもの。人物名こそ変えてあるが、白蛇伝を知っている読者ならば、あれが法海だな、あれは観音菩薩だな、とすぐ見当がつくような仕掛けになっている。単なるパロディにとどまらず〃文革〃の裏話としても読めるのは、上海生まれの作者がつぶさに体験したことがベースになっているからであろう。
 白蛇伝はまだまだ奥が深いようだ。日本ではそれらしき作品も見当たらないが、中国語圏ではまだどんなものが現れるか予想もつかない。大いに期待すべきである。

 さて、比べてみたい妖怪変化はまだいくつかあるが、すでに長々と書いてしまった。ひとまずこの辺で筆を休めるとしよう。
 次回からは現代中国のホラーやアドベンチャーものについて語ってみようと考えておりますので、どうぞよろしく。
posted by りん at 12:27| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月30日

蛇性の淫

 雨月物語の中でも白眉と言われるのが「蛇性の淫」である。うまく紀州道成寺の伝承に結びつけてはいるが、実は中国白話小説の翻案で、原作が馮夢龍『警世通言』に収める「白娘子永鎮雷峯塔」であることは、用語表現の細部を見てもわかる。『雨月物語』が映画やマンガなどに脚色されるたびにこれだけは必ず入っている。
 ところで「白娘子永鎮雷峯塔」の翻案といえば東映アニメの『白蛇伝』で有名なのだが、これが発表される数年前に、実写版の白蛇伝が作られていた。山口淑子・池部良による『白夫人の恋』である。八千草薫が娘役(小青)で出ているのだから、古い話だ。この三人がいまだに健在というのも、別の意味で驚嘆すべきであろう。
 いまの二系統の物語は、時代も場所も登場人物も同じなので、共通した名称として仮に「白蛇伝」と呼ぶことにする。
 専門家以外の日本人が文献で読むことのできる白蛇伝は前者だけである。後者の系統のストーリーは映画の作られたころに出版されたことはあるのだが現在では絶版になっている。にもかかわらず、「白蛇伝」というと、後者を思い浮べる向きが多いのではあるまいか。いったい、この二種の白蛇伝はどこが違うかといえば、答えは単純で、前者は高僧による妖怪退治、後者は若い男女が社会の因習と戦う物語という点にある。
 で、本家である中国ではどうなのかといえば、これはもう後者一辺倒。現在上演されている京劇および地方劇のレパートリーに入っているのはすべて同じストーリーである。前者の白蛇伝はもはや抹殺されたと言っていいだろう。直接の原因はは、近年の劇作家である田漢が解放前夜あたりに書いたシナリオがもとになったためと思われる。はるか昔から、民衆が喝采を送ったのも、やはりこっちのほうであった。芝居に限らず、日本で言えばナニワ節にあたるような語り物でも、事情は同じである。
 では前者はどうして書かれたかというと、一つには白蛇伝のさらに原話ではないかと思われる話に「洛陽三怪記」というのがあって、これも白蛇が美女の姿で男を誘惑する話になっているということ、二つには、もともと両系統のストーリーは流布していたものの、記録者が支配者層の人間なので「反道徳的」な話にするわけにはいかなかったのではないかと思われる。もちろん民衆はもう一つのほうを歓迎した。そして解放後は白蛇に革命の志士のイメージをダブらせて、いっそう流行するようになったという次第である。
 ただし日本で映画化された白蛇伝は、実写にしろアニメにしろ、戦うというイメージはあまり強くない。妖術合戦などスペクタクル・シーンに凝っている割には、大義名分のために戦うのではなく、あくまでも個人の幸福を確保するためという、いわば小市民的なところに落ちついている。しかも実写版「白夫人の恋」では結局悲恋に終わっており、男と女の行き違いというわりあい陳腐なテーマでしめくくった感がある。
 そんなことを考えると、日本に限って言えば、上田秋成の翻案を越えるほどの白蛇伝はついに現れなかったと言えよう。あるいは翻案する際によりどころとなった日高寺縁起、かの安珍清姫のデモーニッシュな迫力のほうが、戦うイメージははるかに強いというべきだろう。
 近頃、能「道成寺」の原型である「鐘巻」の復活上演が行われ、テレビでも放映されたが、古いものの良さが伝わってくる、いい舞台だった。しばらくして、その舞踊化である「京鹿子娘道成寺」の、さらにパロデイである「御鍋道成寺」もテレビ放映されたが、これまた爆笑ものの傑作。どうも日本ではこの系統の話のほうが生命力旺盛なのかも知れぬ。
posted by りん at 13:32| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月10日

さかさに読んでもキツネツキ

 日中比較のつもりで書いてきたが、考えてみたら虎は日本に生息していない。日本側の話は提示しようがないのだ。

 そこで急遽キツネの話をするとしよう。竜虎と並んで志怪小説のスターとして大活躍のキツネを抜かすわけにはいくまい。日中どちらにもあるじゃないかと言われそうだが、その性格はかなり違う。
 違いを一口で言いあらわすキャッチフレーズがないかと考えた末、浮かんだ言葉。

「日本のキツネは人に憑く、中国キツネは家に憑く」

 むろんこれで全てを説明できるわけではなく、人に憑く中国キツネもあり、家に憑く日本キツネもあるが、だいたいの傾向としてお読みいただきたい。

 さてキツネツキという名称から何を連想するかというと、憑依されて別の人格になった人間であろう。目が釣り上がったり、油揚げや赤飯を強要したり、山伏に青松葉で追い払われたり(失敗の方が多いかな?)する。キツネに化かされる話なども、一時的に判断力の一部を乗っ取られたものと考えられる。要するに、人間の身に起こる奇妙な現象を「乗っ取られる」という言い方で合理化しようとしたもので、その中でもキツネのせいだとして説明されるケースが目立つということのようだ。
 対する中国では、キツネが憑いたといえば空き家とか人徳に問題のある御仁の邸宅に憑くのが相場である。人間に憑くケースもあるにはあるが、人格を乗っ取られるようなケースはほとんどない。人間の姿で現れたり、あるいは姿を見せず人間に寄り添って行動の指針を示したりする。あくまでもキツネはキツネのアイデンティティを保って、別人格のまま人間にかかわろうとするように見える。
 では日本のキツネのように、人格を乗っ取るものは何かというと、これは鬼、つまり幽霊と相場が決まっている。魂を乗っ取って別人になるのである。同様に日本では、邸宅に憑くものはキツネではなくて幽霊とされることが多い。ここに奇妙な相関関係が成り立っているのだ。
 民俗学的考察を加えると面白いのだろうけれど、そこまで本格的な論考をやっている時間はない。ただ、アカデミックな学説とは別の一般に流布している俗説、たとえば「武は戈を止めると書く」「人は互いに支えあう形」といったたぐいと同じような俗説に、「狐は胡なり」というのがあって、狐は異民族のことだとする解釈がある。発音が同じであることから生じたものらしいが、一概に俗説として排するには惜しい説得力がある。社会に紛れ込んで暮らしていて、何かの折にふとその正体を垣間見せる存在、というのが志怪小説のスターたる狐なのである。
 してみると日本の説話におけるキツネの存在が異民族のイメージではなく、人間の中にまで入り込んで同化しようとするのも納得できる。身の回りに異民族が普通に住んでいる、という経験は、縄文時代以前はいさ知らず、ごく少数の帰化人は別として、昔の人間の日常ではあまりないことだったのだろう。誰かに異変が起きても、外からやってくるものが原因とは考えにくかったのため、原因はその人間の内部に求められ、かくて「乗っ取られる」とか「憑依される」という話の定番は生霊死霊と並んでキツネのせい、ということになったのではないか。
 日本の説話に見られる中国型のキツネといえば信田妻、つまり安倍晴明の出生にまつわる話が有名である。これは異類婚の物語としてくくられているようだが、話のネタはどうも六朝志怪か唐代伝奇あたりとおぼしい。九尾の狐として知られる殺生石の伝説も、インドや中国の先史時代まで広がりを見せていて、純日本式とは言いがたい。
 安倍晴明で思い出した。つい最近、中国で『陰陽師物語』という本が出た。中を見ると、なんと日本を舞台に安倍晴明が活躍する物語なのだ。夢枕晴明や野村晴明のファンは現代中国にも数多く、ファン心理が高じて自分で作ってしまったと思われる。時代考証にいささか問題はあるが、ほほえましい話題ではある。
posted by りん at 21:02| Comment(64) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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